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読んだ本のことを書いたり書かなかったり

知性は死なない : 平成の鬱をこえて / 輿那覇潤

 この記事を書いている今、上野では東京都美術館ムンク国立西洋美術館ルーベンス上野の森美術館ではフェルメール、とならべてみると、偶然ではあろうが、まるで気でも狂ったかのような、とんでもないビッグネームのならぶ美術展が同時に開催される事態となっている。

 そんななか先日、東京都美術館で行われている「ムンク展ー共鳴する魂の叫び」を鑑賞してきた。ムンクの作品は、人の死や憂鬱、というキーワードで語られることも多いようだが、実際に体験してみると、想像をはるかに超える憂鬱さの渦巻く空間で、初めのうちは、この鬱々と沈んでいく感じは嫌いじゃないな、と思ったものの、2周ほどするとすっかり彼の世界に取り込まれたような状態になり、まるで何かに取り憑かれたような心持ちになった。うつ病闘病記の側面をも持つ本書にあった「脳をラップで巻かれたような感じ」という一節が思い出されて、あ、今うつ病を擬似体験したのかな、と。もちろん実際はそんな安易なものではないのだろうけれど。

 知性とはなにか、教養はなぜ必要なのか、という問いに、ある意味での回答を与えてくれるのではないかと期待して手に取った本書であるが、結果として期待したような結論は得られなかった。しかし、全く予想もしなかった側面からの知性へのアプローチが多々記されており、得るものは多くあったし、まだまだ吸収しきれていないとも思う。おおかた物事には終着点はほぼないようなものだと思っているし、1冊まるまる理解できることもほとんどないと思っているので、期待した結論が得られないからといって、不満を抱いている、というわけではないのだ。

 実はこの本については、何か書きたいと思って2〜3度読み返していたのだが、全体がうまくつかめないまま、そのままになってしまっていた。それが「鬱」つながりで急に思い出されて、わからないなりにも書いてみようと思ったわけだが、さらに読み返すと「この部分は、あの本に書いてあったあのこととつながるな」というように外へ拡がってしまって、まとまらない。そんななか、ひとつだけわかったことは、病は著者の人生の通過点に過ぎず、著者はこれからもまだまだ進化し続けるだろうということ、そして私たちはその著者の知見を糧にして進み続けるだろう、ということだ。このことは、はっきりと著者に対する搾取であると言えるだろう。しかしそれでも前は向かなければならず、そして惜しげなく与えることでそれを後押ししてくれる、そんな1冊なのではないだろうか。