アレモ コレモ ヨミタイ

読んだ本のことを書いたり書かなかったり

21世紀落語史 : すべては志ん朝の死から始まった / 広瀬和生

 著者の同タイトルの文章をWeb連載の頃から読んでいて、たしか連載当初より出版される予定ということだったと思う。早く続きが読みたい!と思いながら過ごしていたことを思い出す。こうして一冊にまとまっているものを読むと、全体の意義のようなものがやっと判った気がするし、何よりやっぱり紙の本って読みやすい。

 タイトルの通り、2000年から現時点までの落語界の歴史が記されていると言っても過言ではない一冊なのだが、前回の教養として学んでおきたい落語 / 堀井憲一郎 - アレモ コレモ ヨミタイと比べてみると、落語界全体を俯瞰で見るって相当難しいよな、と思わざるを得ない。堀井さんは、長い歴史の中の一部としての現在の落語界という捉え方なのに対し、広瀬さんは今この瞬間を切り取る、というスタンスなのかなという気がした。現在東西合わせて落語家は900人以上いると言われているが、個人事業主ともいえる落語家をまとめて語ろうといってもやはり無理があるだろうし、そんな落語界を捉える方法だって十人十色、人それぞれということになるだろう。落語家の数だけ落語界がある、とでも言えばいいのだろうか。

 落語をあまり聞いたことのない人が、つまらない落語を聞いて離れてしまうことを危惧しているという点は非常に理解できる。反面「つまらない」ということも一つの個性、しかもかなり強力な個性となりうるということを強調しておきたいと思う。

 いろんな演者がいて、少しじゃぶじゃぶしているくらいの余剰感があってこそ、豊かな落語の世界と言えるのではないか、と。おもしろさだって通り一遍ではないし、「つまらない」という点で笑わせる芸だってあるわけで。お客さん同士で何を共有するか、ということに拠っている高座もあるのだ。ただこういう芸は配信だと厳しいものがあるのかもしれないな、とも思う。

 ところで6章終わりあたりで、青木るえかさんのことがちらっと出てくるのだが、昔「本の雑誌」で読んでいたことが、懐かしく思い出される。何を書いてあったかは忘れたけど。

 

教養として学んでおきたい落語 / 堀井憲一郎

 前回記事を書いたのが、一体いつだったのか思い出せないくらい時間(とき)が経ってしまった。久しぶりに、ごく短期間の間に勢いで書かれたような本に出会って、心が動いたので記しておこうという次第。

 そもそも落語って教養として学ぶようなもんなのかなぁ、っていうギモンから始まるのだけれど、教養と銘打ってあるだけあって、現状、歴史、落語の内容、落語家について…エトセトラ…というように、すごく枠組みがしっかりしている。しているように見える。しかし、読んでみると…なんかもやっとするものが残るんである。

 どういうオーダーで書かれたものなのか、現時点では知らずにいる私ですが、「マイナビ新書」というシリーズ名からして、なんか引っかかるものが…とは言いつつも、堀井さんの独特な調子にすっかり乗せられて、無事最後までたどり着くことができました。そして、最後のお言葉はさすがだなぁと。

 本の雑誌東京かわら版の連載を読んでいつも感じていたことなのだが、あらためて堀井さんて不思議な人だ。まだまだその不思議さについていけていない自分の未熟さみたいなものを痛感した。

 いやぁ落語って、本当に面白いですね。

サピエンス全史 : 文明の構造と人類の幸福 / ユヴァル・ノア・ハラリ ; 柴田裕之訳

 いろんなところで、いろんな人が面白いと言っていたので読んでみた。内容について真面目に書くと、未読の人はおそらく、すごいつまんない本っぽいじゃん、と思うだろうからどうしようかと思ったが、面白そうに書けるようにがんばってみたいと思う。

 今回はアマゾンで発注したのだが、開封し現物を見て思わず、「私が思ってたのと違う。なんか興ざめなオビがついてるし…」と心が萎える。上巻のオビはカズレーザー、山極壽一(京都大学総長)、西澤順一(みずほ情報総研株式会社代表取締役社長)とあるが、大変失礼ながら三人とも私は知らないしさらに失礼の上塗りをするが、特に知りたいとも思わない。ちなみに下巻はバラク・オバマビルゲイツ池上彰

 他所でも言われていることだが、例の引き方がポップというか、ブッとんでるというか、多分笑いをとろうとしているのだろうが、そういうところがおそらく本書の魅力の一つにもなっているのだろう。

 文明史ということで壮大なテーマに見えたが、実際われわれ人類と呼ばれる生物は、お猿さんとそんなに変わらないし、例えば生命を維持することに関しては個体レベルで見れば劣っている部分が多々ある。集団でいること、現行の社会システムを維持(または維持するための改変)をし続けることでこれをカバーしているに過ぎないのだ。

 この先どうなりたいのか、どうなるべきなのか、それは常に考えつづけなければならない命題で、答えは出ないしもちろん正解もない。このことについてどう考えるのか、という問いを投げかけてくれているんではないだろうか。

 というわけで、あんまり面白そうに書くことはできなかったし、そもそも本を他人に勧めるということ自体にあんまり興味がなかったということを思い出した。でもまあよかったら読んでみてください。

知性は死なない : 平成の鬱をこえて / 輿那覇潤

 この記事を書いている今、上野では東京都美術館ムンク国立西洋美術館ルーベンス上野の森美術館ではフェルメール、とならべてみると、偶然ではあろうが、まるで気でも狂ったかのような、とんでもないビッグネームのならぶ美術展が同時に開催される事態となっている。

 そんななか先日、東京都美術館で行われている「ムンク展ー共鳴する魂の叫び」を鑑賞してきた。ムンクの作品は、人の死や憂鬱、というキーワードで語られることも多いようだが、実際に体験してみると、想像をはるかに超える憂鬱さの渦巻く空間で、初めのうちは、この鬱々と沈んでいく感じは嫌いじゃないな、と思ったものの、2周ほどするとすっかり彼の世界に取り込まれたような状態になり、まるで何かに取り憑かれたような心持ちになった。うつ病闘病記の側面をも持つ本書にあった「脳をラップで巻かれたような感じ」という一節が思い出されて、あ、今うつ病を擬似体験したのかな、と。もちろん実際はそんな安易なものではないのだろうけれど。

 知性とはなにか、教養はなぜ必要なのか、という問いに、ある意味での回答を与えてくれるのではないかと期待して手に取った本書であるが、結果として期待したような結論は得られなかった。しかし、全く予想もしなかった側面からの知性へのアプローチが多々記されており、得るものは多くあったし、まだまだ吸収しきれていないとも思う。おおかた物事には終着点はほぼないようなものだと思っているし、1冊まるまる理解できることもほとんどないと思っているので、期待した結論が得られないからといって、不満を抱いている、というわけではないのだ。

 実はこの本については、何か書きたいと思って2〜3度読み返していたのだが、全体がうまくつかめないまま、そのままになってしまっていた。それが「鬱」つながりで急に思い出されて、わからないなりにも書いてみようと思ったわけだが、さらに読み返すと「この部分は、あの本に書いてあったあのこととつながるな」というように外へ拡がってしまって、まとまらない。そんななか、ひとつだけわかったことは、病は著者の人生の通過点に過ぎず、著者はこれからもまだまだ進化し続けるだろうということ、そして私たちはその著者の知見を糧にして進み続けるだろう、ということだ。このことは、はっきりと著者に対する搾取であると言えるだろう。しかしそれでも前は向かなければならず、そして惜しげなく与えることでそれを後押ししてくれる、そんな1冊なのではないだろうか。

 

 

知的生産の技術 / 梅棹忠夫

 この本はデジタルアーカイブの講習会に参加した際に、参考資料として紹介されていた。なんだかタイトルにものすごく見憶えがあるな〜家にあったかも、と思って書棚を見てみたがみあたらなかった。長い間読み継がれている名著なので、持っているような気になっていただけなのかな、と思い近いうちに購入するかなぐらいの気持ちでいた。で、やっぱりというか何というか案の定、本を片付けていたら、読み終わったコーナーに新品状態でそっと立っておいでであった。よくあることだが買う前に気づいてよかった。しかし、全く開いた形跡もないのに読み終わったコーナー。この世でもっとも信用できないのはやはり自分、ということなのかもしれない。

 隣にあったのが外山滋比古の思考の整理学(これは読んだ記憶も残っている)で、こちらもやや似たような系統の書籍であり長く読み継がれているものだが、とある人がブログか何かで、「この本に書いてあることは自分はほとんど実行済みであり、あまり得るものはなかった」というようなことを書いていたのを思い出し、突如、この人にものすごく、「思考の整理学よりも、この知的生産の技術の方を読んだ方がいいかもよ」と勧めたくなってしまったのでここに記してみる。件の記事は見つけられないし、ブログの主もここの存在を知る由もないので不毛といえば不毛なのであるが。そして、もうすでに知的生産の技術は読んでるかもしれないから、それはそれでいいのだけれど。

満州暴走隠された構造 : 大豆・満鉄・総力戦 / 安冨歩

 以前上司だった女性から、「あなたのその自信なさげなところだけが心配。つけこんでくる人は必ずいるからね。」と言われたことがあった。当時は何のことだかまったくわからなかったのだが、あれから15年近くを経る間に起こった、人間関係における不愉快な出来事の数々を思い起こすと、ほぼ全てがここに帰結しているのではないだろうか、そう考えることで何かパズルのピースが一つはまったような感じがした。残念なことだが、人間というものは、互いに搾取し合うようにできている部分が少なからずある、と私は思っている。自分よりも弱いヤツを無意識にいつも探している弱い人間というのは、必ずいるもので、特に組織という単位で見れば、その中には必ず一定数いる。そして、その餌食になるのが自信なさげな私だったというわけだ。テキトーにあしらっておけばよさそうなものなのだが、なにぶんこちらは自信がないので、相手が立ち上がれなくなるまで叩きのめす構えを見せてしまうのである。また向かって来られたら怖いやん。その点では怖いもの知らずである。そんなわけで、自分より弱いと思って攻撃してきた弱い相手は激昂したり、仕返しをしようとしてきたりするのが大概である。これでずいぶんイヤな思いをしてきた、と、自分では思っている。

 こんなことを話しても、考えすぎだよ、とか、そんなはずないって、という人が大半だと思われたので、誰にも話すことなく、で、まあ例によってこんなところに書き散らしているわけなのだが、そんな「自信なさげな私」の根本原因は母親にあると思っている。他所のお母さんというものについては、私はよく知らないという前提なのだが、母娘の間柄における母親というものは総じて娘に対して支配的で、娘というものは母親の所有物であり、独立した人間などではない、というのが普通なんだろうと思っていた。ところが、最近流行りの毒親とか、ハラスメントといった事物について見聞きするうちに、これまさに自分の親のことなんじゃないか、と考えるようになった。特に安冨先生の書かれたものやインターネット上の動画での言説に触れるなかで、母親との関係に問題があったのだろうな、と言う予想はついていたので、どの部分が問題だったんだろうか、としばらく悩んでいたのだが、本書を読み終わってはたと頭に浮かんだワードは、単なるいじめ。我ながらくだらねぇ結論だった。なんだ、私は母親にいじめられていたのか。母もまた、弱い人間だったのだ。拍子抜けしたが、同時にスッキリもした。念のため断っておくが、上記内容は例のごとく、本書の内容とは全くと言っていいほど関係がない。

 閑話休題、以前の勤務先の一斉メールで、安冨歩教授の授業がMOOCで配信されているようだが視聴したり拡散したりしないように、とのお達しがあった。特に理由は説明されていなかったのだが、時流に乗ってるし別にええやん、しかもMOOC使うなんてなかなかアツいな!とその瞬間は思ったものだ。しばらくして、でもそうか、授業は大学にとっては売り物か、じゃあしょうがないか、と、ひとまずそこで考えるのは終わりになった。しばらくのちに、そこかしこでお名前を見かけるようになって、あ、授業の動画をアップして怒られてた先生だ、と思い、追いかけるようになって、今ここ、というわけだ。で、本書のあとがきでは、このMOOCの件に少し触れられている。私が呑気に別にええやん、から、まぁしゃあないか、と下等な思考を巡らせている間、当事者の先生方は、それなりのダメージを食らっていたのだということに気づかされ、妙なところで過去に思いをはせることになってしまった。

サリン : それぞれの証 / 木村晋介

 2018年7月6日、オウム真理教の教祖であった麻原彰晃こと松本智津夫ら7人の死刑が執行され、残る6人は2018年7月26日に死刑執行された。13人の死者、6,300人の負傷者を出し、未だに後遺症に苦しむ人もいる大惨事であり、また松本サリン事件とそれ以前の3件のサリン事件の存在、これらに対する当時の警察の初動にも疑問が持たれている事件であることから、このタイミングで死刑を執行してしまって本当によかったのかとの思いが拭いきれない。

 7月6日の執行は国会会期を延長しての最中で、会期中の執行は異例との報道もあった。さらに政権への批判も高まっているなかでの執行であり、また前夜の自民亭宴会の様子が画像で流出するなどしており、多くのよからぬ憶測を呼ぶタイミングとなったことは否めないであろう。

 オウム真理教に関連する宗教団体は、未だ複数存在しており、相当の資産を保有しているという。被害者へのケアも民間団体などによって継続されている。たとえ実行犯を死刑にしたとしても痛ましい事実は終わらないのだということを、この書籍は示しているのではないだろうか。